曇りのち、晴れ 後日談

「アッシュ、君、最近、ジョーンズ夫人と会った?」

出先から帰った英二の声にアッシュは開いていた雑誌から顏を上げた。

「ジョーンズ夫人?」
「下の階に住んでいる人だよ!」

「知らないの!?」といった驚きを滲ませながら聞く英二にアッシュは軽く口を尖らせた。

「近所づきあいしているお前じゃないんだから、他の住人のことなんか知らねえよ」

アッシュの言葉に英二はひどく納得した顏で「そりゃ、そうだよね」と返して、「それじゃ、なんでだろう」と呟いた。
英二の言葉を聞きとがめたアッシュは雑誌を閉じると、体を捻って、ソファの背に両肘を乗せると英二に聞き返した。

「なんでだろう、って?」

英二は郵便受けから取ってきた手紙類をテーブルの上に広げて、要るもの要らないものに分けながら答えた。

「いや、ジョーンズ夫人って下の階に住んでいるおばさんなんだけど、この前、うちのベランダからの水が掛かるって文句を言いに来たんだよ」

「そのとき、君はまだ寝ていたけどね」と付け加えて、片眉を上げて、アッシュをちらりと見る。

「ベランダで水なんか使わないだろ?」
「そうだよ。そう言ったんだけど、納得してくれなくてさぁ」

英二はその際言われた自分への失礼な物言いとそれ以上に許せなかったアッシュへの誹謗を思い出して、きゅっと眉根を寄せた。

「どこにでも居るさ。そういう変な奴は」
「うん、まぁ、そうだね」

思い出した不快な記憶を敢えてアッシュと共有する必要はないだろうと英二は笑顔を作って相槌を打った後、不思議そうな顔をして続けた。

「そうなんだけど、今さっき、入り口ですれ違ってさぁ。最初、顏を見て、正直、『うわっ』って思って、身構えちゃったんだけど、僕の顔見たら、急に笑顔になって近寄って来て、『同居されている方はどちらのご子息なのかしら?』って聞かれたんだよ」

英二は言葉を一旦切ると、買い物して来たものを冷蔵庫に入れるためキッチンへと回った。

「ふぅん。それで?」
「いや、何を聞かれているのか分からないから、こっちが『え?え?』って驚いていたら、勝手に納得した顏で『あぁ、無理に聞き出そうって言うんじゃないのよ。何かお困りだったら遠慮なく言ってね』って一方的に話すだけ話して去って行っちゃったよ」
「・・・・・」

キッチンカウンターの向こうからはがさがさと冷蔵庫を整理する音と英二の声が聞こえてくる。

「そのおばさんって、頭は白くなりかけていて、髪をひっつめた、痩せぎすな感じの人?」

アッシュの言葉に英二はばたん!と勢いよく冷蔵庫のドアを閉めるとカウンターの上に顏を出した。

「やっぱり知ってるんじゃないか!」
「この前、出入り口で会っただけだよ」
「・・・それにしては君のことをべた褒めだったよ?」

アッシュは記憶を辿るように視線を上へと向けた後、にやりと笑った。

「いかにもオレのことを胡散臭い目で見るからさ、極上の営業スマイルで挨拶したんだよ。それだけだ」

英二が言わないことを敢えて聞き出す必要がないと思っているアッシュもジョーンズ夫人にベランダの水のことを言われたことは口にしない。

「上流階級向けの綺麗な言葉遣いで挨拶したからな、うちのことを上流階級の人間だと思って愛想使って来たんじゃないのか?」

にっと口の端を上げるアッシュに英二も「なあんだ、そうだったのか」と笑顔になった後、一転して眉間に皺を寄せ口をへの字に曲げた。
そして、

「・・・“うち”?」

と鸚鵡返しに聞き返す。
アッシュも怪訝そうに「どうした?」と聞くと、英二は

「上流階級の人間だと思ったのは“うち”じゃないよ!君のことだけだよ!」

と捲くし立てて、きっとなってカウンターから身を乗り出した。

「去り際になんて言ったと思う!?」
「さ、さぁ?」

勢いに押されたアッシュが素直に「分からない」と首を振ると英二は悔しそうに言った。

「買い物袋を提げた僕には『いいご主人様に仕えて、貴方も幸せね』だって!僕はハウスキーパーじゃないっていうのに!」
「ぶっ!」
「君もたまには自分のことは自分でやれよ!」

2013年6月2日

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