あるバレンタインの日 後編

「ただいま〜」

自転車のキーをドア脇のキーボックスに掛けながら、奥のリビングにいるはずのアッシュに声を掛けた。
返事はないが、英二の声は聞こえているだろう。
英二は着ていた上着を廊下の壁に打たれたフックへと掛けると、手を洗うため、洗面所に向かった。

「ふぅ」

お湯から立ち上がる湯気に目の前の鏡がさっと白く曇った。
勢いよく蛇口から流れ出す温かいお湯に両手を浸しながら、ほっと一息吐く。気温の上がらない中、自転車を飛ばして帰ってきたので、指先は冷え切っている。

(手袋していけばよかった)

バレンタインの今日、外出はしたくなかったが、マックスからコラムに合った写真素材はないかと聞かれて、せっかくのチャンスに自分の撮った写真を提供しない手はない。
気になったのはバレンタインの日だということだけ。
実は過去何回かのこの日、うまく行った試しがない。

昨年もやはり出掛けなければならない用事があって、出掛けた先で相手に押し切られた恰好でもらってきたいくつかのチョコレートに、アッシュが片眉上げて、「オニイチャンはモテるんだな」と言ったことから、疲れていた英二もそれに言い返して、喧嘩になった。
その教訓から英二は14日のこの日には、危険を感じたら、できるだけ話を早く切り上げることにしている。
用意してくれる人たちは幾ばくか・・・いや、幾ばくどころか、心から英二のことを思って、チョコレートを用意してくれたのだろう。
用意してくれたチョコレートのセレクトやら苦労やら、その背景にある話を聞いているうちに相手の「だからもらってくれないかな」といった想いを垣間見てしまうと英二はつい、「ありがとう」と言って両手を出してしまう。

その前の年はもっとまずかった。
そもそも、日本だと女の子が男の子にチョコレートをあげる日と決まっていて、チョコレート業界の思惑か、単なるイベントと化している面も多分にあって、本命以外にも義理チョコ、友チョコといったものまであるから、そう深い意味を感じなかったし、なにより、自分がそういう対象として見られている自覚がなかったので、何も気にせず、バイト先の写真店でもらったチョコレートを持ち帰ったら、アッシュにとても怒られた。

「そいつら、皆、ゲイだぞ!」

そりゃあ、少しはおかしいとは思った。英二にチョコレートをくれたのは男性ばかりだったから。それでも、軒並み、一輪のバラまで添えていたので、ある意味、そういうセットが流行っているのかと思ったくらいだ。
しかも、アッシュに怒られただけでなく、後日、くれた人からは「あのとき、笑顔で受け取ってくれたのに」と“お付き合い”を了承したものだと思っていたと酷く責められたり、がっかりされて、英二も非常に気まずい思いをした。

そんな過去の経緯もあり、英二はせめてこの日は受け取らないことにしている。
ジェシカは勿論そんなつもりはないのは分かっているが、何もわざわざアッシュの機嫌を損ねることはないので、後日、もらうことにした。
・・・シンは分からないので考えないことにしている。シンの態度は最近、英二が見てもそうじゃないかと思うこともあるくらいだが、本人が言わないのだから、敢えて意識しないようにしている。

(でも、シンが持っていた箱、あれ、ベルギーで有名なお店なんだよなぁ)

シンが持っていた箱が、先日、テレビでも紹介されていた有名ショコラティエの店の箱でまだニューヨークへの出店がないことを思い返すと英二は少し心躍らせて遠い目をした。
数日後にはもらおうと考えている英二だったが、シンに会いに行くこと自体にアッシュがいい顏しないことを今は完全に忘れている。

きゅっと栓をひねってお湯を止めると棚に積まれたタオルから1枚を引き出して手を拭いた。冷えていた指先もようやく温まった。
洗面所を出て、リビングへ向かった。

リビングではアッシュが長い脚をソファに投げ出して、肘掛けに寄り掛かって、雑誌を読んでいた。

「ただいま」

英二が入っていくと読んでいた雑誌から顏を上げた。

「・・・おかえり」

英二は手に何も持っていないことを示すように両手を軽く上げて、アッシュへと見せた。
アッシュは上げられた英二の手元へちらりと視線を向けるとすぐに興味なさそうに再び雑誌へと目を向けたが、英二は英二を見遣ったときのアッシュの片眉が上がっていたことを見逃さない。

(本当は僕がチョコレートをもらって来てないか気になっているくせに素直じゃないな〜)

なんとなく疲れるばかりだった外出を考えるとアッシュの態度に対して、「人の苦労も知らないで」と文句の一つでも言いたくなったが、顏を雑誌へ向けたアッシュに英二は見えないように人差し指を目の下に当てて舌を出した。

(べーっだ)

紅茶でも淹れて一息吐こうと、キッチンへ向きを変えて、アッシュに背を向けたところで、アッシュの声が耳に入った。

「コーヒーでも飲まないか?」

英二は振り返って応えた。

「あぁ、ちょうど、紅茶でも飲もうと思っていたところだよ。なに、コーヒーがいいの?」
「あぁ」
「OK。コーヒーにするよ」

リビングから繋がったキッチンへ入ったところで、再びアッシュの声が聞こえた。

「冷蔵庫に入っている箱も一緒に持ってきてくれ」
「うん」

アッシュに言われて冷蔵庫を開けるとグリーンのリボンの掛かった白い箱が中央に陣取っていた。

「これ・・・!」

この箱には見覚えがある。つい先ほど、シンが手にしているのを見たばかりだ。しかも、シンが手にしていたものより、一回りほど大きい。
英二は目を大きく見開いて、箱に魅入った。

「いつまでも冷蔵庫を開けてるなよ」

リビングの方から声が掛かる。
慌てて冷蔵庫を閉めて、リビングへ繋がったカウンターから顏を出して、手にした箱を掲げた。

「アッシュ!これ!これって」
「お前、この前テレビに食い入るように見てたじゃないか。・・・もらったんだよ」
「え?」

(なんだ、もらったものなのか)

英二の気持ちが声に現れていたらしい。アッシュは雑誌から顏を上げて、英二の顔をしばし眺めるとやや不機嫌そうに言った。

「・・・もらったんだよ・・・・・そういうことにしておけよ。英二、食べたかったんだろう?」
「え?」

再び同じ言葉を返して英二はアッシュの言葉の意味を理解しようと反芻しながら、アッシュの顔をじっと見つめた。
英二の不思議そうな視線を受けるうちにアッシュの顔はみるみる赤くなっていき、最後には雑誌で顏を隠してしまった。

「じっと見るなよ!」

(あぁ)

英二は口の端が上がってくるのを自覚した。笑いがこみ上げてくる。

(本当に素直じゃない)

そんなに英二のために入手したと言うのが恥ずかしいのか。
英二は笑いを噛み殺しながら、カウンターに肘を乗せて、顏を隠したアッシュをいつまでも見遣った。
時折、英二から漏れる「くくっ」という含み笑いにアッシュはいきなりばさっと雑誌を下ろすと赤い顏のまま不機嫌そうに一言言った。

「コーヒー!」
「はいはい」

「来年は『英二のために買ったんだ』って言わせてやるぞ」と妙な闘志を燃やしながら英二はコーヒーメーカーへと手を伸ばした。


数分後。
英二はお気に入りのマグカップにコーヒーを淹れて、冷蔵庫から出したアッシュのチョコレートをテーブルに並べた。
そして、

「ちょっと待っててね」

と言うと、再度キッチンへ向うと温かそうな湯気の立ち上る茶色の塊を載せたトレイを運んできた。

「これは僕から」

そう言って、英二が茶色の塊にフォークを入れると中からはとろっとしたチョコレートが溢れ出てきた。

「フォンダンショコラだよ。君が朝、寝ている間に用意しておいたんだ」
「うまそうだな」

アッシュが優しい目で英二に応えた。

「君も、ありがとう。僕がテレビを見て、『食べてみたい』なんて言ったことをよく覚えていたね。横向いて雑誌読んで、目もくれなかったのにさ」
「あれだけ、食い入るように見て、『おいしそう』を連呼すれば嫌でも記憶するさ」

呆れたように言うアッシュに英二は肩を竦める。

「ふんっ。・・・でも、ありがとう。僕のために“もらってくれて”」

英二が最後を強調して言うとアッシュは眉根を寄せた。
でも、英二は知っている。アッシュが嬉しいとき、恥ずかしいとき、殊更、不機嫌そうに表情を押し殺して眉根を寄せることを。
でも、英二にとってはアッシュのそんな表情は「最高に嬉しい」と言っているのも同じだ。

「これはお礼だよ」

英二はアッシュの頬に軽く唇を寄せた。

「ん」

アッシュは少し目を伏せて、口元に笑みを浮かべながら、マグカップへと手を伸ばした。

(うわ、やってみると恥ずかしい・・)



後日談。

「それで、食べたら、すごくおいしかったんだよ!」

嬉しそうに語る英二にシンの表情はどこまでも暗い。

「そ、そっか、よかったな。・・・もう食べたのか・・・」

消え入りそうなシンの声に気づかずに、今まさにシンがくれようとしているチョコレートのおいしさについて、英二は一生懸命説明した。
説明すればするほどシンの顔は悲しそうに曇っていくのが英二には不思議だった。

(??アッシュには『どうせもらうなら、美味しかったことを説明してやれよ』と言われたけど、なんでこんなに悲しそうなんだろう)

「でね、そんな美味しいチョコレートを本当にありがとう!」

英二としては最大のお礼を伝えたつもりだったが、自分があげたチョコレートで「こんな美味しいのは初めてだよ!」というお礼を期待していたシンはやはり悲しそうだった。

「いや、いいんだ。そんなに美味しかったのなら、よかったよ」

うーん。おかしい・・・もっと、バレンタインらしく、甘々にしたかったのに(-ω-;)
私なりにイメージした二人はこれが限界だったかも。
二人ともベタベタしれくれないんですもの。
そもそも、他の展開を考えていたのに、流れに任せたら、こんな感じになってしまいましたが、読んで頂いた方には満足頂けたでしょうか。

英二は人に対して垣根を作らないから、老若男女にモテそうです。
でも、本人は鈍くて、ミセス・オーウェンの好意とシンの好意の区別なさそう〜。

書くにあたって軽くネットで見てみたんですけど、アメリカでは男性から女性へのプレゼントが基本とは言うものの、女性からあげることもあるとも読んだので、まぁ、そんな感じで書いてます(^ω^)

てな感じでまとまりありませんが、素敵なバレンタインを♪
(2013年2月11日コメントから)

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