Beautiful life 前編
「エイジー!」
ばたん。ドアを閉めて家にいるはずの英二に声を掛ける。
返事がない。
英二は今日は打ち合わせに行っていたはずだが、時間的には既に帰っているはずだった。
英二は伊部の助手として写真を撮り始めたものの、伊部から離れてここで暮らすようになってから、自分でも写真を撮り始めるようになっていた。
少しずつだが写真を使ってもらうことも増えてきていたところをおれの知り合いの目に留まり、個展を開いたらどうかと誘いを受けた。
英二自身はまだ自信がないと言っていたが、とりあえず話を聞いてみたらどうかと送り出したのが今日の打ち合わせだった。
「居るんだろう?」
首にまとわりつくネクタイを緩めながら、リビングへと入って行く。
おれの方も仕事の打ち合わせで人に会ってきたところだが、窮屈極まりなかった。
先方はディナーを用意してくれていたので仕方なく付き合ったが、いかに高級レストランでも好まぬ相手と食べるディナーは無味乾燥で、一刻も早く英二が用意してくれているであろう夕食で食べなおそうと急いで帰ってきたところだった。
着ていたジャケットをソファへとばさりと掛け、部屋の中をまんべんなく見渡した。
いない。
きっと暗室にいるのだろう。
英二が伊部とは別に独立した写真を撮るようになってから暗室を作ったが、一番奥の部屋なので、おれが帰ってきた音も聞こえないのだろう。
現像中にドアを開けてはまずいだろうから出てくるのを待とうと思い、まずは水でも飲もうとキッチンへ向かおうとした。
がちゃ。
リビングに続いた部屋の奥からドアを開ける音がして、程なく英二が姿を現した。
「!帰ってたんだ?」
おれの姿を認めて、笑顔で迎えてくれた。
「いや、ちょうど帰ってきたところだ。暗室にいたんだろう?」
英二は最初に会った時よりもだいぶ髪が伸びて、今では後ろで一つに縛っている。
元々、童顔なので、髪を短くしているとどうしても「奥村先生はどちらに?」と本人を目の前にして訊くクライアントが絶えないらしく、年齢よりも幼く見えることを気にしている英二としては髪を伸ばして少しでも歳相応に見せようという小さな抵抗らしい。
おれとしては以前のような少年のように見える短い髪型もよかったが、こちらの伸ばした髪を無造作に縛っている髪型も艶っぽく見えて、これはこれでいいと思う。
「うん。この前一緒に付き合ってもらって渓谷に行っただろう。あの時撮った写真を現像していたんだ」
メガネを外して、自分のシャツの裾でレンズを拭きながら英二が答える。
これも会った当初は知らなかったが、英二は元々視力はよくなかったらしく、以前はコンタクトをしていたが、最近はコンタクトよりもメガネを掛けていることの方が多い。
これも英二本人ははっきり言わないがどうやら少しでも大人っぽく見せたいという足掻きらしい。
「どうだった?打ち合わせ、行ってきたんだろ?」
傍に寄って、左手を英二の肩に置いた。
「うん。断ろうと思っていたけど、熱心に勧めてくれるから、やってみることにしたよ」
英二との距離が縮まり、英二はメガネを手に持ったまま、おれを見上げてふわっと優しく微笑んだ。
「そうか!やったな!」
右手で英二を抱き寄せて、ぎゅうっと抱き締めた。
(かわいい)
「ちょっ、ちょっと。メガネが曲がっちゃうよ」
いきなり抱き寄せたので、手に持っていたメガネが曲がってしまうと焦る英二がメガネを掛けようとするのを制して、右手で英二の額に掛かった髪を上げると黒い瞳を見つめた。
メガネも知的そうで優しい雰囲気に一役買っていると思うが、妨げるものなく英二の黒い瞳を見るのも好きだった。
「お祝いしなくちゃな」
左手で肩を抱いた手はそのままに右手を英二の頭の後ろに回しておれの方へと引き寄せた。
英二の頭がおれの肩口にすっぽりと収まって心地よい。
「ありがとう、シン。君のおかげだよ」
「いや、お前の写真が認められたんだよ」
顏を上げた英二におれは唇を寄せた。
2012年8月19日